~おのづから~
「おのずからあいあうときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」
一遍上人のお言葉です。
新型コロナウィルスの猛威はとどまるところを知らず拡大の一途です。
私が最初にこのニュースを聞いた(または観た)のは年末だったか、年明けだったか・・・
いずれにしても、行く年くる年的に一年を振り返り、来年は東京オリンピック!と世間が騒いでいた時でした・・・
その頃はまさかこのような事態が訪れるなんて・・・微塵も思いませんでした・・・
2003年に世界で流行したSARSのようなもので私は勝手に「一部地域では流行し、残念ながらお亡くなりになる方もいるのかな?」などと本当に対岸の火事のことのようにとらえていたのでした。
その後も、国内初の感染が判明。クルーズ船ダイアモンドプリンセス号での感染者発生。北海道で感染拡大。大阪のライブハウスでクラスター(この言葉もここで初めて覚えた)発生。など確実にその猛威は足下に接近しつつあったにもかかわらず・・・そして心のどこかに・・・外国はもっと悲惨だけど・・日本は大丈夫・・・いつか新薬が間に合う・・・ワクチンが間に合う・・・いや実はもうあるんじゃないか・・・・
等々 。本当に自己に都合よく状況を変換していたのだと反省いたしております。
ウィルス拡散で命や健康が危ぶまれることはもっとも危惧すべきことです。また、経済や社会活動が制限されることもお影響も甚大です。そしてそのことで人間の心がさらに荒んでいくことにも心配があります。
お寺に参拝すらままならない今日の事態。
不定期ですが
伝えていきたいと思います。
第1回目は 「おのずから」
新型コロナの感染拡大の中 私たちは「おのずから」を今一度深く考える必要があるのではないでしょうか>
「おのずから」なのか「おのづから」なのかははっきりとわかりませんが。
おのづからの意味は「己(おの)つ(助詞)柄(から)
私の解釈では 一遍上人は 「おのづから」を二つに分けていたと思います。
一つ目は 「自から」であり、自らの意思・自らの足で行動を起こし、人に頼らずに、自己を究極まで見つめる
二つ目は 「おのづから」偶然や自然の成り行きとしての「おのづから」。人との出会い、縁、自然現象に遭遇しても自然体で受け入れ人や自然事象との出会いを受け入れる。
この言葉は「人生は自分の意思で決定し進んでいくもの。しかし、その道程では様々な人と出会い、禍福もかわるがわる身にかかるであろう、それらは喜怒哀楽様々な感情を自分にもたらすがすべては己の心の在り方で変わっていくのだ。」と。
全く相反するような二つの概念ですが「自他法界平等利益」として「自力・他力」を超えて、衆生のしようとした一遍上人の真骨頂であると私は思います。
新型コロナウィルスの終息を願うばかりですが
私たちは、まず自分の心に向き合い、うけとめ、人ではなく自分が何をなすべきか考え。そして、このウィルスがもたらす様々な影響をしっかりと受け入れることは受け入れて、人や社会に寄り添い、集団でのモラルを守る。
流されずに、足元も見つめる。そのような行動が求められているのではないでしょうか?
時宗 西念寺
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